降りしきる雨の中
タイトル |
降りしきる雨の中 |
表紙 |
青菜 様
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頒布日 |
2009/08/16(コミックマーケット76) |
頁数 |
52P |
イベント価格 |
500円 |
自家通販 |
無し(400円) |
委託 |
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outline
木津昇一郎には、好きな人がいた。中学の頃から、ずっと好きだった少女だった。しかし、その相手には他に好きな男がいて――
銀花屋の、初のオリジナル本となりました。
四苦八苦しながらも、持てる力の全てをもって、愛だけは可能な限り詰め込んでみました。
主人公の心の葛藤を楽しんでいただければ幸いです。
sample
一秒ほど、見つめ合った後、夕夏の方が先に口を開いた。
「木津くん。今日はありがとうね」
先ほどまでの無邪気なものとは打って変わって強張った声だった。同時に、こちらの腕を取る彼女の指先が、小刻みに震えているのに気がついた。
――夕夏が、怯えている。その怯えを押さえ込むために、急流に浮かぶ藁よろしく、こちらの腕を掴んできたのか。
それに気付いてしまうと、もう彼女の手を振りほどく気にはなれなかった。
「……さっき、聞いたよ」
「誘ってくれた事じゃないよ。いや、誘ってくれた事も含めて――かな。つまり、河合くんをわざわざ誘ってくれた事についてなんだけど……感謝してる」
「……ああ」
夕夏の頬が、ほんの少しだけ朱色に染まったように見えた。同時に、こちらの腕を掴む手の力も、少しだけ強くなったような気がする。
「私、今日、河合くんに言うから。その、好きだって告白するから」
そう言われた瞬間――空気の暑さも、こちらの腕を握っている夕夏の手の感触も、あらゆる感覚が消えた気がした。もちろん、一瞬の錯覚だ。
「……わざわざ、俺に宣言する必要はないだろ」
俺は、心の中とは、まるで違う言葉を夕夏に投げかける。我ながら、まったく平静な声に驚いてしまう。大した役者だ。
――これが、俺の憂鬱の原因だ。夕夏は、今日一緒に海に行く河合鷹信に惚れている。そんな夕夏に、俺は惚れているんだ。
惚れた女から、別の男が好きだと聞かされる気分は……なかなか辛いものがある。
「だって、今日河合くんを引っ張ってきてくれたのは君でしょう。協力してくれて、とても感謝してる。でも、あまり君に頼り切ってもいけない気がするからさ。今日、決着を付けるわ」
頼りにされてるという実感が湧いた。それが嬉しいかと言われれば、当然嬉しい。だけど、それよりも悲しみの方が勝っていた。そんな相反する二つの感情が綯い交ぜになりそうだったけど、何とか堪えて言葉を絞り出した。
「協力なんて、大層なものじゃない。海に行く計画を立てて、それに鷹信を誘っただけだからな。あとは、お前がやりたいようにやればいい。成功すれば笑えばいいし、失敗すれば泣けばいい。それより、腕を放せ。男に告白しようって日に、別の男にくっつく女なんて聞いたことが無いぞ。鷹信に見られたら、不味いだろ」
「……うん、ご忠告ありがとう。何となく、君とじゃれ合ってると緊張がほぐれるからさ。今日は気を付けておく」
「……どういたしまして」
ようやく、夕夏の真剣な顔が崩れて、いつも通りの笑顔になる。そして、こちらの腕を手放した。その彼女の手の動きが、何となく名残惜しそうに感じたのは――おそらくこちらの願望にすぎないんだろう。
昔は、夕夏の笑顔を見るだけで心が温かくなったものだ。しかし、今は苦しさの方が上回る。だから、もう一度視線を反らした。見ていられなかったから。
「ん? あれは……」
そうして反らした視線の先に、見覚えのある人影が、真っ直ぐこちらに向かっているのが見えた。茶色い長い髪に、やや派手めの服、そして気怠そうな細い目をした痩せた女――
ぼんやりとその姿を見つめていると、こちらと目が合った。手を挙げて軽く振ってやると、向こうもそれに応えて同じように手を振ってきた。
やっぱりそうだ。一帆だ。
「一帆が来たぞ」
「え、どこ?」
「見えないか? あそこだ。今、こっちに歩いてきている」
「……見えない。というか、私とお前は頭の高さが違うんだ。無茶を言わないでよ」
一帆がいる方角を指さしてやるが、夕夏はそちらに顔を向けても一帆の姿を見つけられなかったらしい。彼女の背では、行ったり来たりを繰り返す人混みの頭を飛び越えて、遠くまで見通す事はできないんだろう。
もっとも、見つけられなくてもさして不都合はなかった。数秒とたたず、一帆はこちらの傍までやってきたからだ。一帆は、ぱっちりした一重瞼の瞳がはっきり見えるくらいこちらに近づいてから、いつも通りの小さな、透明な硝子を弾いたような硬質の声で挨拶をしてきた。
「――お早う、二人とも。昇一郎が目立つから助かる」
「お早う。言っておくが、俺は灯台でも何でもないぞ」
夕夏と同じような事を言う一帆に、思わず顔をしかめてしまう。それが、よほどの渋面だったのか、こちらの顔を見て夕夏がころころと笑い出す。
「あはは。良いじゃないの、分かりやすいんだし。そんだけ背が高いんだから、目印にされるのは宿命みたいなもんでしょう。さて、お早う一帆。今日の海、楽しみよね」
「楽しみなのは分かるけど、夕夏、貴方ははしゃぎすぎだと思う」
「そう? 楽しみなのは確かだけど……そんなに限度を超えてるかしら」
夕夏は笑うが、対照的に一帆は無表情なままだ。
こうして並べるといつも思うが、とにかく二人の印象は対照的だ。髪の色や長さ、性格や顔つきなどが、かなり異なる。俺への呼びかけも、夕夏は名字だが、一帆は名前だ。
それにしても、一帆の声は相変わらず低血圧っぽい。声そのものも硬いのだけど、抑揚があまり無いせいで不機嫌そうにも聞こえる。もっとも、彼女とも既に三年ほどの付き合いだ。別に、彼女は不機嫌だというわけではないのは理解している。そういう喋り方なだけだ。
さて、待ち人は残り一人だが、首を伸ばして辺りを見回しても、まだ姿は見えない。腕時計を見ると、ちょうど十時十五分だった。待ち合わせの時間まで、あと十五分ほどになる。
「鷹信がまだか。大丈夫かな」
「大丈夫と思う」
独り言だったはずの言葉に返事が返ってきたから少しだけ驚いた。横を見ると、さっきまで夕夏と談笑していた一帆が、いつの間にか立っていた。
一帆はこちらに顔は向けず、どこか遠くを見るような目でこちらを見ながら、いつもの淡々とした口調で話し始めた。
「真面目な河合なら、遅れるときは電話なりメールなり連絡してくるはず」
「……確かに、アイツが遅れるとも思えんか」
「そう。無駄な心配はする必要がない」
一帆の言う通り、あまり心配は要らないだろう。しかし、一応は今回の海行きを決定した者としては、メンバーの事を気にかけるのは当然だ。そう言ってやると、一帆は頭を振った。
「昇一郎の言っている事は間違いではない。だけど、貴方は少しだけ他人を気遣いすぎている。それが、貴方の美徳でもあるんだろうけど、行きすぎは良くない。何でもかんでも気にしていたら、いずれ禿げる」
「おい、禿げるって……」
「ストレスを溜め込むのは良くないという意味。それに、ストレスは毛髪だけではなく健康そのものにも良くない。適度に、気を抜く事をお勧めする」
一帆は無表情のまま、それこそストレスの元になりそうな事を平然と言う。
別に特別な事は言っていないのだけど、俺と同じく大学の物理学部に所属していて、おまけに成績が一番の彼女に言われると妙な説得力がある。思わず、頭を弄ってしまう。当然、髪の毛はきちんとあるが、意味もなく不安になった。
「それより、聞きたい事がある」
こちらの気など知らず、一帆は唐突に話題を変えてきた。元から小さい声が、さらに絞られて小さくなっている。隣にいる自分の耳でも、聞き取れるか聞き取れないか微妙な大きさだ。
それで、一帆が人に聞かれたくない話をしたがっているのが分かった。俺は、何となくその内容が想像できた。一瞬、聞こえないふりをしたいとも思ったが、ここで無視をしても結局は追求されるだろう。一帆は、無口なようで意外としつこい。
「……何だ?」
「夕夏は、今日、河合に言うつもり?」
「……そう言っていたな」
想像通りだった。一帆も、夕夏が河合を好いているというのを知っている。このメンバーの中で、夕夏の気持ちを知らないのは河合だけだ。
そして、河合が夕夏を好いているのかどうか、誰も知らない。
「海辺で愛の告白か。妥当すぎて突っ込む気も起きない。河合は、夕夏の告白を受けると思う?」
「……さあな。そこまでは分からない。夕夏の恋に協力するとは言ったけど、そこまでは知らん。俺にできたのは、今日、告白の舞台を用意する事だけだ。誘った時の反応から、それなりに脈はあるような気もするが」
「そう」
普段からあまり表情を動かさない一帆は、表情が読みづらい。今も、夕夏が河合に告白するのをどう思っているのか良く分からない。歓迎しているようにも見えるし、歓迎していないようにも見える。
どうにも、良く分からない。歓迎しているなら良いのだけど、歓迎していない場合は厄介だ。それは、つまり一帆が河合に好意を抱いているかも可能性があるわけで、そこまで面倒は見きれない。さすがに、それは無いとは思うが。
そんなこちらの気苦労を知ってか知らずか、一帆は平坦な声で続けた。
「夕夏も子供でもない。さっきも言ったけど、貴方はそこまで世話を焼く必要もないと思う。確かに夕夏は、外見が子供みたいだけど」
一帆は、一帆自身もまったく笑わないような冗談を言う。
俺も、一帆の冗談には笑う事ができない。鏡などないから確認できないが、今の自分の顔は強張っているはずだ。とても、軽口に付き合ってられるような気分じゃない。
俺は、黙り込んだ。一帆も、特に話を続けてはこなかった。会話がなくなると、今度は居たたまれなくなってしまった。
俺は何となく空を見上げる。何だか、さっきから暇さえあれば空を見上げているような気がする。
どうしてだろうか。眩しくて仕方がないけど、そうしたい気分だ。誰かが、上を向けば涙がこぼれないという歌を歌っていたけど、それは正しいのかもしれない。
「……」
空を見ていると、思い出す。あれは確か今とは似ても似つかない、灰色の雲が空を覆っていた日だったっけ。辺り一面が水浸しになった大雨の日。
――何となく空を見上げているのは、今すぐにあの時と同じような雨が降ってくれないかと願っているからだろうか――
「どうかしたの?」
「うん?」
どれくらい、空を見上げていたんだろうか。いつの間にか、隣にいる一帆と夕夏が入れ替わっていた。
「……別に、何でもない。そういえば、お前と初めて会った日は、大雨が降っていたなと思ってな」
「ああ、そういえばそうだったっけ。懐かしいね」
夕夏は、俺と同じ空を見上げて、目を細めた。多分、あの日の事を思い出しているんだろう。
その横顔を見て――俺は確信した。自分は、未だにこの子供っぽい女の子に惚れているんだと自覚した。
そう。俺は、竹柴夕夏に惚れている。あいつを好きになってから、今年で六年間目だ。
それだけの間、ゆっくりと育ててきた自分の恋心は、たった一言によって、つい先日あっさりと壊れてしまった。先日、相談があると呼び出された喫茶店で、あいつはこう言った。
「――河合が好きなんだ」
そうして、話の流れで彼女の思いが成就するように協力することになってしまった。
一帆の言う通りかもしれない。確かに、俺は他人に気を遣いすぎている。だが、この性格は治りそうにない。
「――」
六年間。長いようで、短いような時間だった。初めて出会った日は、昨日のように思い出せる。
六年前、まだ自分の背が少しばかり低かった中学二年の事だ。あれは、とにかく滝のように降りしきる雨の中の出来事だった。