Silver Flower - Book -

流流と洋洋と

Cover
タイトル 流流と洋洋と
表紙 天王寺 めい 様
頒布日 2011/08/14(コミックマーケット80)
頁数 84P
イベント価格 500円
自家通販 無し(400円)
委託

outline

どこかの世界のどこかの時代のとある場所。
„短命が義務付けられたはずの外見だけは若い老人、自由にならない思考を持つ魂を持った人形、色んな物を忘れた亡霊、もはや役割を失った神。
„月日は流れ、当たり前と思っていたものが当たり前でなくなっていき、どこかすっきりしないものを抱えながら、皆は苦しみながら生きている。
„
„
„と、まあそんな感じの小話を書けてると良いかなと思ってます。正直、それほど甘さはないような中身になっています。これまで書いてきた話の中では、かなり異質かもしれません。

sample

翠。それが私の名前だと何度も何度も自分に言い聞かせながら、少女は夜を耐えていた。
„ 少女は眠らない。眠れない。だから、いつも朝が来るのをじっと耐え忍ぶしかない。
„ 少女は亡霊だった。亡霊が眠るわけがない。
„ 世間では、亡霊など夜に現れるものだと相場が決まっているようだが、実のところ、亡霊というのは朝も昼も夜もいる。夜に目立つのは、おそらく人が夜を怖がり、必要以上に臆病になっているためだろう。だから、訳も分からず亡霊というものを見てしまうのだ。
„ 別に、亡霊は夜を好いていない。むしろ、夜は嫌っていた。数少ない記憶の中でも、ただ月明かりだけを頼りに漂うしかなかった無かった日々しか思い起こせないそんな時間が、好きになれるわけがなかった。
„ 朝ならば、昼ならば、人通りの多い場所に行きさえすれば、多少なりとも寂しさを誤魔化せる。しかし、夜はまず無理だった。よほどの大都市ならともかく、この辺りはあまり人通りが多くない。だから、夜は寂しくて暗くて、とてもとても嫌だった。
„ 今では、それほど嫌いではない。その時間でも、話せる人が出来たためだ。しかし、彼が寝静まると、途端に夜は嫌な時間に様変わりする。
„ だから、その時間は、じっと彼の姿を見る。嫌な気分を紛らわせるためだけに、目の前の男を凝視する。行燈の弱々しい光りに照らされている男の顔は痩せぎすで、どこか鋭く、見ているだけでなぜか落ち着く。頬杖を突いて、座ったまま寝ている男は、よほど疲れているようで起きる気配がない。
„ そういえば、この男の名前は何だっただろうか。
„ そんなことが気になってしまった。覚えているはずだった。しかし、思い出せなかった。
„ 思い出せない、思い出せない、思い出せない。
„ 頭が割れそうなほどに悩んでも、どうしても名前が出てこない。その苦痛から逃げ出したくて、男の首を締めようとした。しかし、まったく手応えは感じられない。手は首をすり抜けている。当たり前の光景だった。
„ 一瞬の後、何をしているのだろうかと我に返り、亡霊は飛び跳ねるようにして男から離れた。自分で、自分の手をじっくりと見る。異様なほどに白い手は、いつもと何も変わらない。おそらく常人なら汗まみれであるはずなのに、恐ろしいほどにいつも通りだ。
„ ふと、部屋に全く別の気配が入り込んできた。気配の方を見ると、そこにはやたら小柄な少女が、布団を抱えていた。少女があまりに小柄すぎて、全身が布団に隠れてしまっている。とても持ちあげられそうにないのに、小柄な少女は苦もなく布団を運び込み、部屋の真ん中に敷き始めた。そして、男を布団に引き込み、寝かしつける。
„ 小柄な少女は、男を布団に放り込んだ後、亡霊の方を見た。そして、口を動かす。おそらく、おやすみとでも言ったのだろうけど、亡霊は聞いてなどいなかった。先程までの自分の恐ろしい行動に怖気付いて、聞いている余裕がなかったからだ。
„ 小柄な少女は、行燈の火を吹き消した。部屋の中は、完全な暗闇になった。
„ だから良く分からなかったが、小柄な少女はそのまま布団の中に入り込んだようだった。
„ 外は未だに真っ暗闇だ。
„ 夜明けまで、おそらく後、数刻かかりそうだ。朝はまだ遠い。
„
„
„
„     †  †  †
„
„
„
„ 鉄樹が目を開けると、いつものように異様なほど靄がかかった光景が目に飛び込んできた。
„ 視界が恐ろしくぼやけている。自室のはずなのに、周りの様子ですら良く分からない。分かることは、室内はかなり薄暗いということくらいだ。この部屋の窓は硝子ではあるが、それほど透明度は高くない安物の上、冬という今の季節は陽の光も弱い。さらに言うなら、この家の庭には大きな桜の木が鎮座しており、その枝が陽の光を遮ってしまうため、室内に採り入れられる光量はとにかく少ない。
„ それに、鉄樹は目が悪いのだから、視界が不快なのは当然だった。太古、人と妖が交わった際に人に伝わった要素が顕在化したために発生すると言われる半妖の身は、元来は不自然な混血の影響のためか、世間でも良く知られているように、肉体こそ頑強である代わりに短命であり、子も望めない体となっている。そして、体の一部に障碍を持って生まれることも少なくなく、鉄樹の場合は目がそれだった。
„ 尋常ではない近視と乱視が組み合わさり、裸眼ではまともに物を見ることができない。童の頃から分厚い眼鏡が欠かせない不便な目ではあるが、生まれてから九十年間付き合っていると、今さら不満も感じない。
„ 鉄樹は枕元に手をやる。指先に、眼鏡の弦が当たる感触が伝わる。鉄樹にとって、眼鏡は誇張なしに命綱と呼んで差し支えないものだ。目が覚めた直後で、頭がまだ正常に動いてなくても、半ば無意識のうちに眼鏡を手に取る。この眼鏡も、もう二十年ほど使っているが、近年は安くなったとはいえまだまだ貴重品であり、買い換える気は起きない。
„ 鉄樹は布団に潜り込んだままゆったりとした動きで眼鏡を掛けて、天井を見上げた。眼鏡によって鮮明になった視界は、薄暗い中でも天井の木目もはっきりと捉えられるようになった。しかし、どうにも現実感がない。目はきちんと開いていると思うのだけど、自分が起きているのかどうか判然としなかった。鉄樹は、とにかく起き抜けは血の巡りの悪く、しばらくぼんやりとすることが多い。
„ そうしている間にも、それほど上等ではない布団からは、刺すような冷たい空気が入ってくる。この家は古く、しかも夏場を過ごしやすくするために敢えて隙間風が通るように造られている。だから、夏場は確かに涼しくて過ごしやすく、反面、冬場はかなり冷え込んでしまう。特に朝方は、外とほぼ変わらない気温となることもしばしばだ。鉄樹は寒さに強いと自負しており、実際に軍人時代に極寒の地である北方大陸への遠征軍に加わった時でも、まったく病とは無縁であった。しかし、それでも寄る年波には勝てず、最近の朝はやはり少し辛い。
„ それでも懲りず、しばらく寝転んだまままどろんでいると、寒気に刺激されて少しずつ頭が冴えてくる。まるで霧が晴れるかのように、頭の中が涼やかになる。
„ これもいつものことだ。ようやく頭が回り始めた鉄樹は、ゆっくりと上半身を起こした。
„「寒いな……」
„ 首を回して、部屋の中を見渡す。
„ 狭く、殺風景な部屋だ。小さい本棚に、一切の装飾のない実用一点張りの行燈、そして黒檀の頑丈な机くらいしか目立つものはない。本棚には本がたっぷりと詰め込まれている。本の内容は、技師としての自分の研究を記した手書きの書物や、市販の学術書などが大半だ。そして、机の上には整理の途中で放り出した明細や帳簿の山がある。
„ おそらく一昔前ならば……いや、今でも十人に聞けば十人が貧乏商家の旦那の自室と答える光景だ。少なくとも、元は軍の中尉で、さらには卒族の男の部屋だとは思わないだろう。卒族は、士族の下の身分とはいえ、兵卒という言葉通り、かつては御國の兵という役割を担ってきた家系である。そのような血筋なら、刀の一振りくらいは枕元に置いてしかるべきと一般の人は考える。だが現実というものはしばしば常人の考えるものとはかけ離れているもので、昨今、身分というものは皇族か華族、もしくは余程の家柄の大貴族に属する者にしか意味を持たず、一般の貴族や士族、そして卒族は法制上も慣習上も、あらゆる特権が形骸化しており、その生活はほとんど衆族と差が無いものとなっていた。
„ 例えば、かつては衆族――つまりは一般民衆と、それより上の身分である士族や卒族とを分けていた最も象徴的な特権である帯刀権ですら、今は衆族出身者が多数を占める執政院布告の武具類携帯取締令で禁止されているほどだ。刀の所持や帯刀そのものは禁止されていないが、箱に収めるか、もしくは鞘と鍔を紐で結わえて、すぐには抜けないような処置をしなければならず、違反するとすぐに官憲に捕まり拘束される。
„ つまりは時代というわけだ。刀を捨て去るようなことは無いが、枕元に置いて火急に備えるという、かつての士族や卒族の気風など、今やよほど守旧の気風を持つ家系が朧気に残している程度だ。
„ そのことを嘆き悲しむ者は意外と多いのだけど、鉄樹はその意見に同意できなかった。六十を過ぎた辺りなら、まだ愚痴を言う元気くらいは残っていたのかもしれないが、九十を越えるほど年を取ってしまうと、その程度の時代の変化くらい、あっさりと受け入れられるようになるものだ。実際、鉄樹はかつての身分制度によって産まれた文化への郷愁などより、一つの疑問の方を強く感じていた。
„ その疑問とは、自分がいつ布団に潜り込んだのかということだった。鉄樹は昨晩のことを思い出していた。仕事の途中で疲れ切り、そのまま机に突っ伏して寝てしまっていたはずで、少なくとも布団を敷いた記憶はない。しかし、今の自分は布団の中で眠りこけている。それは、一体どういうわけか。
„ だが、すぐにその疑問への答えは分かった。
„ 誰かが布団を敷き、机に突っ伏した自分を運んで寝かせただけだ。既に、驚きすらない。それは、ほぼ毎日のことであり、本来は疑問に思うことですら無い。単に、起きたばかりで頭の回りが悪いために少々混乱しただけだった。
„「……」
„ 寒いのを我慢して、布団をめくり上げる。
„ そこには、小さな人影があった。人影は、一見して少女の形をしていた。
„ 少女の目は開いていた。寝転んだまま、少女は、奇妙なほどに白い肌、どんな黄金よりも明るい磨き抜かれた銅のような髪を持っていて、空の色に例えるにはやや暗い青の瞳を鉄樹に向けていた。少女は、黒に染められ、袖が無く、裾も短い艶めかな肌着姿だったが、鉄樹に見られてもまるで隠そうとはせず、気軽な声で呟いた。犬の散歩の途中で近所の童と出会った時の挨拶くらいの気楽さだった。
„「おはようさん。ようやっと起きたようじゃな」
„「ああ、おはよう。布団を敷いてくれたのは、お前か」
„「そりゃ、そうじゃわ。私以外に、寝こけたお前さんを運べるんはおらんわな。仕事に精を出すのはいいが、もう年寄りというのを自覚しなや」
„ 少女はそう言って立ち上がり、大きく伸びをした。その目線は、軽く上半身を起こした鉄樹とほぼ同じ程度だった。それだけなら、まさに童女と呼ぶに相応しい体格だったが、その顔に浮かぶのはそれなりの年を経た若い女の美貌だった。さらに惜しみなく晒されている細い手足は、関節部分が異様であった。よくよく見れば、それは鋼線や歯車の一部が見え隠れする奇怪なからくりとなっており、当然そんな体を持つ彼女は尋常な少女ではなかった。
„ しかし尋常でない少女は、そんな自らの異様さなど知らないとでも言いたげに、まるで童女にしかできないようなどこまでも朗らかな笑みを浮かべていた。鉄樹は、頭の中の霞を追い出すかのように頭を振りながら礼を言った。
„「ありがとうな」
„「ま、感謝したいというのなら止めはせん。さっさとしろ。口付けならば実に良いし、抱き締めるんも悪くはないかな」
„「そうか」
„ 鉄樹はそういった言葉に動揺しない。
„ 少女は、無邪気に無意味に、他人の心を惑わすようなことを口にする。それは純粋に面白がっているからでもあり、そして本当にそれを望んでいるからでもある。少女は、自分の心を偽るような真似はしない。何かを思いつけば、すぐに口に出して、行動に移すところがあった。
„に立ち上がった。まるで達磨か起き上がり小法師のようだ。
„ 鉄樹は、そんな少女の芸に驚きもせず、そのまま布団の上で大きく伸びをした。完全に目が覚めていた。
„ 軽く頭を振りながら虚空に目をやると、一人の少女と目が合った。
„ 彼女は、異様なほど存在感の薄い少女だった。その表情はあまりにも透明だ。さらに溶けかけの雪を思わせる透き通った肌、眠たげな目、あらゆる角を削り落としたかのようなすっきりとした小さな顔、そして女学校の制服に身を包んだその姿は、どこまでも存在感というものを感じさせない。ただ、肩の辺りで切り揃えられた美しい黒髪だけが、奇妙なほどに存在感を示していた。
„ 少女は、宙に浮かんでいた。それに驚くことなく、鉄樹は軽く微笑んだ。
„「おはよう」
„「……おはようございます」
„ どこか空虚な声が辺りに響く。亡霊は、こちらを見なかった。
„ いつもと全く変わらない一日の始まりだった。
„
„
„
„     †  †  †
„
„
„
„ 一般には陽上または陽洲。七つの大島から成るから大七島。國の多数を占める民である耶土人からそのまま取って耶土國とも呼ばれる國がある。そこには、三十余州があり、そのうちの一つ、東雲ノ州の首府、鶴来は、二十万を超える人が住み、大規模な演習場と駐屯地を抱えるため、軍都とも渾名される陽上有数の都市だった。
„ だが、それだけ大きな都であっても、寂れた区画というものは存在する。もっとも寂れていると言っても人が住んでいないわけがなく、やや粗末で小さな家や店が軒を連ねているような、少し古びた町並みが残されているところだった。そんな中に、景械屋という店名を掲げた店があった。
„ 昨今、新築の家は北方渡来の頑丈な白石造りが主流となった昨今では、もはや珍しさすら覚える木造の店舗は、古くてところどころが傷んでいる。
„ 鉄樹は、その店の主であった。鉄樹は、勘定台に座りながら、朝っぱらから憂鬱な気分になっていた。陰鬱というほど深刻ではなく、どちらかと言えば面倒くささに近い気分だった。その内心を表すかのように、鉄樹は椅子の背もたれに深く体を預け、足は遠くに投げ出している。
„ だらしないことこの上なく、曲がりなりにも一つの店を切り盛りする立場にある者とは、とても思えない姿である。縁のある眼鏡、良い生地の着物を身に付けた姿は背筋を伸ばして椅子に深く腰掛ければ、それなりに品が感じられるだろうが、今の有様では全てが台無しになっている。
„ もっとも、このようにしているのは、まだ開店前で店内には一人の客もいないためである。さすがに客には見せられる姿ではないことは、鉄樹自身も自覚している。現在、鉄樹以外で店内にいるのは僅かに二人であり、そして彼女たちは鉄樹の身内だった。一人は宙に浮いて呆れとも取れるようなぼんやりした眼差しでこちらを見つめており、もう一人は勘定台に仁王立ちとなってこちらを睥睨していた。
„ 彼女たちを見ていると、鉄樹は回れ右をして店の奥にある工房に引き篭もりたくなってしまうが、このまま放置しておくわけにもいかない。まだ開店時間まで間はある。しかし、時間というものは実に下らないもので、ぐずぐずしているといつの間にか過ぎ去ってしまうものだ。実のないことで悩むよりは、動いた方が良いというのは、鉄樹の持論だった。それを守って酷い目に遭ったことも多々あるが、それはともかく脇に置いておく。
„「……で、申開きはあるか、クロティルド」
„ 鉄樹は取り敢えず、彼以上に行儀などかなぐり捨てている、勘定台で仁王立ちになってこちらを見下ろしている少女に話しかけた。鉄樹の声には、僅かばかりの苛立ちと、それをはっきりと覆い隠すほどの呆れた色が含まれていた。鉄樹と長い付き合いのある少女は、その声の裏にある感情に気付いているはずなのに、あっさりと無視してくれた。
„「つまりな、私はこう言いたい訳なんよ、テッキ」
„ 仁王立ちしている少女は、顔だけを見るのなら、年の頃は二十歳前に見える。だが、背丈はせいぜい三尺少し――即ち真っ直ぐに立った常人の腰よりは多少高い程度で、さらに春の晴空を思わせる微笑みも相まって、まるで童のようにしか見えない。
„ 当然、そのような外見の持ち主が常人であるわけもない。彼女は、長い間、月日の光を浴びることで魂を得て怪生となり、ついには人格すら得て妖として認められた付喪神だった。人形は、この陽上から海を超えた北方の大陸で造られ、姿形はそこに住む民を模している。この國では珍しい金の髪に青い目は、その異國においてはさほど珍しくないものであった。
„ 人形の服装は、朝の黒い肌着から替えられている。とにかく鮮やかな赤を貴重とした衣装は、人形の自慢である、足元まで届きそうな長い髪が絡みついていることもあって、とにかく目に痛いほどに派手だった。
„ 当然、人形なので外見から推察できる年齢は常人のそれとは全く隔たっている。彼女は魂を得て自らの意思で動けるようになってから、既に五十年が経っていた。当然、知識も経験も稼働年数に相応しいほど蓄えていたが、その精神はどちらかと言えば外見に近く、悪戯好きで遊び好き、陽気者の人形だった。
„ その陽気さは、多少のことではびくともしない。困ったことに、鉄樹の冷たい視線くらいで崩れるなど有り得ないほどには頑丈だった。
„ 人形にとっては鉄樹は長い付き合いのある存在であり、恐れる理由など全く無いのだから当然だ。人形が動けるようになってから、常に彼は持ち主で在り続けた。それだけの長い期間、共に過ごしていれば、どういった言動をすれば鉄樹の堪忍袋の尾に切れ目が入るのかを推し量るのは、実に簡単だった。
„ 人形は、鉄樹を見つめ返した。ほっそりとした顔だ。人によっては端正と言う者もいれば、線が細いと言う者、どこか病的と言う者もいるだろう。いずれにしろ、耶土人としては、それほど珍しい顔ではない。
„ 人形としては、この顔を見るたびに刀を連想する。鋭さを感じさせる顔の輪郭は刃、しかし眼鏡の奥に潜む、細くて妙に穏やかな瞳は峯、そしてその身にまとった雰囲気はどこかくたびれていて、錆の浮いた鉄の鞘を思わせる。
„ 年の頃は、人形よりも少し上の二十半ばから三十手前に見えるが、人形自身と同じく、外見から年齢を推察するのは意味のない行為だった。半妖は、常人とは成長の仕方が異なっている。半妖は老いこそ妖と同じく緩やかだが、寿命は人よりも妖よりも短い。五十まで生きられれば長生きの部類になるほどだ。だが、鉄樹はその範疇に当てはまらず、既に九十を超えて、それでもなお生き抜いていた。
„ だから、若い姿でありながら、老人のような雰囲気をまとっている。その老人に向かって、人形は臆面も無く言い切った。
„「だからやな、ここ数日、とにかく寒かったやんか。三月やけん当然じゃ。こないだは結構な雪も降ったことやしね。そして単純な話、我が日高見の家計は近年、それなりに逼迫しとるのは、テッキやって分かっとると思う」
„ 人形は、四州――佐那、石動、司木、古門の四つの州で構成される島の訛りが多分に含まれた言葉を続けた。この言葉遣いは、鉄樹の前の持ち主が使っていたもので、人形は未だにその訛りが抜けなかった。意識して抜けないように努力している面もあった。
„ やや早口な少女の声は、心地良い甲高さと相まって、硝子の杯を指で弾いた時に出る、切り裂くような音を連想させた。
„ だからというわけではないが、鉄樹は商品棚にある、文字盤が硝子で造られたそれなりに高価な時計を見やった。一から七までの数字が刻まれ、文字盤が八等分に区切られた時計だった。陽上では一般的な物で、三周することで一日を表す形式のものだ。あいにく、開店時間まではまだ間があった。つまり、彼女を止めてくれるような闖入者が入ってきてくれる可能性は皆無ということだ。
„「確かにうちは儲かってると言いがたいが、そこまで困窮しているわけでも無いぞ。多少の暖を取れるだけの薪もあるはずだ」
„ 人形は鉄樹の言葉など無視して、長広舌を続ける。
„「可愛らしく、賢く、持ち主への愛情は天下一品。そんな付喪神の鏡たる私は、貧しい経済状況の中、この寒い大気の下で、薪も節約している主人に、いかにして尽くせばいいのかを考えに考えて、そして思い付いたんじゃ。天啓とは、まさにこのことってな」
„「自画自賛も、そこまでいくと羨ましくなるな。それで、その天啓とやらが俺の布団に潜り込むことなのか? それも、肌着姿で」
„ そうだというなら、天というのは碌でも無いものだなという感想を言外に混ぜ込んでいたが、人形は鉄樹の内心など見事に無視した。
„「そうじゃ。人肌で温めてやれば、鉄樹も風邪などひかへんのんちゃうかって、そう思うてやな。意を決して服を脱ぎ、恥をこらえてテッキの布団に入り込んでお前の体に抱きついたんやわ。どうよ、この主人思いの行動なんて、まさに付喪神中の付喪神と言うに相応しいやんな」
„「あのな……」
„ 減らず口を叩き続ける人形に、鉄樹はどうしたものかと悩む。
„ この人形の持ち主として過ごして早五十年間、この少女は常々鉄樹を悩ませてきた。世の中には、太陽は東から登るだの、犬の尻尾を踏みつければ噛み付かれるだの、そういった全く単純な常識を前提とした会話が通用しない者が確かに存在している。そんな者の持ち主となったがために、鉄樹は実に忍耐力が鍛えられていた。それは、軍人としての経験から培ったものでは断じて無かった。
„ 思わず、もう一人の少女に助けを求めそうになった。しかし、彼女はとてもではないが、人形の回る口を止める役には立ちそうにないので論外である。事実、鉄樹がその一人の方に目を向けても、何ら行動を起こそうとはしない。
„ 宙に浮かんでいる少女だった。当然、彼女も尋常な存在ではない。
„ そもそも、彼女はここに存在しているというわけではなく、既に死んだ者、つまりは亡霊だった。現世の一握りの者以外には姿も見えず、未練ゆえに幽世にも行けない、世の爪弾き者だ。亡霊の少女は、この家にある鉄樹が所有している軍刀に取り憑いていた。その縁のためか、それともさらに別の理由があるのかは不明だが、鉄樹と人形にだけ姿が見えていた。これまで、鉄樹と人形以外に、彼女が見えたという者はいない。
„ 亡霊は、鉄樹と目が合っても何も言わない。ただ、こちらを見ているだけだ。一切の感情が欠落したかのような目だった。ただ、その視線は強かった。どこか間が抜けていると見えるほどに弱々しい目付きだというのに、視線だけは強かった。もっとも、口にしなければその目線に込められた意味は読み取れない。目だけで話ができるほど、この亡霊とは付き合いが深くなかった。
„ 鉄樹は仕方なく、人形に視線を戻した。
„「自分で主人思いだとか言うかよ。だいたい、意を決するとか言うが、してるわけ無いだろうが。普段から、恥じらいの欠片もなく、素裸で風呂場に入り込んでくることすらあるくせに」
„「風呂場じゃ服を脱ぐのが礼儀じゃろうが。寝てる時にまで服は脱がんよ。それに本当に恥じらいが無けりゃ、素裸で布団に入っとるわよ。私はそれなりに良識は持ち合わせとんじゃ」
„「まさか、それを感謝しろとでも言いたいのか?」
„ 気が萎えそうなのを自覚しながら、鉄樹は続けた。椅子からは、既に腰が半分ずれ落ちそうになっている。
„「だいたい、お前の体に人肌ほどの暖かさなど無いだろうに」
„ 人形は、所詮は人形だ。付喪神となったとはいえ、元は木製の人形に人肌の温もりというのはあまり期待できない。
„ 事の発端は単純だった。朝、目が覚めると布団の中に人形が潜り込んでいた。ただ、それだけだ。そして人形は、普段から身につけている赤い豪奢な衣裳ではなく、黒い肌着だけの姿だった。
„ 鉄樹は、それに驚かなかった。この人形は、これまでも好意を様々な形で露骨に表してきていた。そして、鉄樹が人形の行為をそれとなく注意し、人形はそれを適当にあしらうのも、いつも通りの手順だった。鉄樹の九十年もの人生の半分は、この人形と過ごした時間である。既に鉄樹は人形の行動になど慣れきっていたし、もともと色仕掛けにかかるほど、色事にこだわっていたわけでもない彼には、特に目くじらを立てるような事でもなかった。
„ だから、この口論は、さして意味のない早朝の運動程度の意味でしか無かった。
„ それは人形も承知の上で、敢えてこのような行動を長年続けていた。だが、いくら承知をしているとはいえ、人形にとって鉄樹の行動は全く気に入らないことに変わりはない。そして、鉄樹のその態度を許容できるほど人形は寛容ではなかった。目の前で肌を晒していた人形の少女を全く邪魔者扱いして、布団から転がすように追い出した鉄樹を相手に、延々といかに自分の行動が正しいかどうかを説明していた。
„「だからといってテッキよ。思いやりたっぷりの人形相手に、お前は塵でも放り投げるように扱ったんやぞ。それは許されざることじゃわ」
„「自分の欲望を優先させるのは、思いやりと言わんぞ」
„「そんな些細なことはどうでもええんじゃって」
„「確かに、些細といえば些細なのは間違いないかもしれないが……どちらかといえば、毎日こんなやり取りをするのは馬鹿馬鹿しくさえあるな」
„ 鉄樹は本音を放ち、少しばかり半眼で人形を睨みつけたが、人形は軽く首を振っただけだった。
„「細っかいことなんぞ気にすんなや。それはそうと、テッキ。お前はもう少しばっかし持ち物に対する愛情を持つべきじゃ。付喪神っていうのは、持ち主からの愛情が何よりの褒美なんじゃしね」
„「俺は、愛情にも程度とやらがあってしかるべきと思うがな」
„「枯れてんな。それなりの愛情くれるんやったら、金無しでこき使われても良いんやぞ。さらに、今ならおまけも提供しよう。この金の髪に青い目に白い肢体、お前が命じればすぐにでも物に出来るってのに、何が不満なんだか……」
„「不満じゃなくて、ただ鬱陶しいんだよ」
„ こちらを見下ろす人形の髪が、彼女の動きに合わせて踊るように流れる。その動きは微かに艶かしさすら感じてしまい、鉄樹はほんの僅かだけ人形から目を逸らした。誤魔化すように片手で眉間をもみながら、言葉だけは続ける。
„「分かってて言ってるだろ、お前も」
„「……いや、そんなことはないぞ」
„ 人形は、鉄樹にも嘘だと分かる言葉を呟いた。人形も、自分の言葉が相手に信用されていないことくらいは分かっていた。それでも止めないのだから、人形の精神は確かに頑丈ではあった。
„ 鉄樹は、軽く溜息をついた。どれだけ、この類の話を繰り返したかと思いながら、数えられるような回数ではないと思い出した溜息だった。そして、人形の口を無理矢理にでも閉じさせたいと思いつつ、その誘惑を押さえ込んだ。
„ 人形の口上は、鉄樹がやめさせようと思えば簡単にやめさせられる。なぜなら、人形は本人が言うように付喪神だ。付喪神は、基本的に持ち主の命令に逆らえないように出来ている。それは絶対的な本能とも言うべきもので、付喪神は持ち主に逆らうことを許されていないし、その事実を疑問に思うことすら無い。
„ だからこそ、鉄樹は止めなかった。例え付喪神であろうと、その行動を強制的に制限するのはあまり好みではなかった。その鉄樹の考えを人形は一切の誤解なく知っていたし、だからこそ鉄樹の好まない話題でも恐れること無く続ける。
„ そして人形の方は、鉄樹のそのような考えを侮辱に値すると決めつけていた。鉄樹の口先一つで、人形は行動を縛られる。持ち主と付喪神は、どこまで行っても支配するモノとされるモノだ。望まない行動を強いることも、その逆も全く難しくはない。それは、鉄樹が人形に情けをかけていると言っても過言ではなく、事実でもある。
„ それは対等でないことであり、その関係を切り崩すためには、鉄樹の情けを潰すことが第一歩だと信じていた。鉄樹が人形に黙れと命じた瞬間、鉄樹と人形の、上辺だけの対等関係が終わり、新しい関係に進めると信じていた。だから、しつこく食い下がる。
„ その考えは、実に子供じみている。人形も、自分の考えが幼稚であることは自覚していた。持ち主と持ち物が対等であるなど、有り得ることではない。それでも、幼稚であるがために、人形は自分の癇癪にも似た考えに固執した。
„ 人形は口上を続け、鉄樹は気のない相槌を打つ。そのような会話は、十日に一度の割合で店内に虚しく響き渡る。やがて、語ることもなくなり、人形はようやく口を閉じる。鉄樹は僅かな苛立ちと共にこの時間を耐え抜き、人形は自分の主張を完全に語り尽くして僅かな充実感と敗北感を同時に得る。
„ そして、人形は最後の最後に、負け惜しみの言葉を投げかける。
„「ま、良いわな。人の心なんて秋の空、山の天気より移ろいやすい物じゃしね。じっくりこってり進めていくわいな」
„「……そうか。ま、程々にな」
„ そう呟く鉄樹の声は、彼自身、気が抜けていると自覚できるほど空虚なものだった。
„ これで、クロティルドとの茶番じみたやり取りは終了だ。この五十年間繰り返されているこのやり取り、鉄樹は心底から飽きていたが、人形は全く物足りないようだった。
„ 何となく鉄樹は、先程からこちらの様子をただじっと見ている者に、その視線を向けた。
„ しばらく、鉄樹は亡霊と見詰め合っていた。人形は、鉄樹と亡霊の視線に気付いて、やはりそちらに目を向けた。しばらくそうしていると、亡霊は興味を失ったかのように視線を逸らし、そのまま壁をすり抜けてどこかへ行ってしまった。
„ 人形は、その亡霊の行動に不満を隠そうとはしなかった。付喪神は、持ち主と自分とを同一視することがある。鉄樹を無視するというのは、自分を無視されるのと同義だった。
„ 一方、鉄樹は軽く前髪をいじりながら、苦笑した。亡霊は、亡霊らしい振る舞いをすべきだと考えていた。少なくとも、彼女は亡霊らしい振る舞いをしている。愛想が良く、生気に満ち溢れた亡霊など、気味が悪いだけだ。そのような亡霊など存在しない。存在したところで、そのような亡霊はすぐに己の死を受け入れ、この現世に見切りをつけて幽世へと至るだろう。
„ 亡霊の少女は、自分の死に納得がいっていなかった。より正確に言うなら、自分の死がどういったものなのかすら忘れてしまっていた。だから、死を受け入れられず、この場に留まっている。亡霊の願いは、自分の死を知りたいということだけだった。特に害など無いため、鉄樹は亡霊の少女を祓うこともせずに、この家に置いていた。
„ 気が向いたときに、亡霊の正体を知るための調べ物をしてやるくらいのことはしていた。もっとも、氏素性もあらゆる記憶も亡霊は忘れ去っているため、まったく手掛かりはない状態であり、結果は芳しくなかった。
„ 鉄樹は、未だ勘定台に仁王立ちをする人形の首根っこを引っ掴み、小脇を抱えてから優しく床へと下ろした。そして、店を開ける準備にとりかかろうかと大きく体を伸ばしながら、立ち上がった。
„